先日、高崎市吉井町の多胡碑を見学してきました。
群馬には上毛カルタというものがあります。
今回のタイトルは、この上毛カルタの札「む」の句です。
目次
- 多胡碑とは
- 石碑(いしぶみ)の里公園
- 多胡碑を観るぞ
- 多胡碑記念館
- 最後に
多胡碑とは
多胡の古碑(以後、多胡碑)は、2017年にユネスコの世界の記憶遺産に登録された上野三碑(こうずけさんぴ)の一つで、さらに日本三古碑の一つです。
多胡というのは群馬県の現高崎市吉井町にある地名で、1955年(昭和30年)まで多胡郡多胡村(たごぐんたごむら)として存在していた自治体の名称でもあります。
この多胡という地名の歴史は古く、大宝律令の時代 711年に多胡郡(たごのこおり)が成立したのですが、その経緯を記したのが多胡碑です。
他の上野三碑は山ノ上碑と金井沢碑ですが、どちらも当時の有力豪族によって、親族の供養に因んで建てられた私的な石碑です。
対して、多胡碑は郡の成立を記した公的な石碑であり、大和朝廷の政策や正史とされる続日本紀の記述を裏付ける資料でもあります。
また、碑文の書体も注目されており、書道史的な価値も高く、東アジアの文化交流を示す貴重な資料とも言われています。
以上、多胡碑についての基礎知識(私の独断的判断によるものですが^^;)でした。
それでは、多胡碑を見に行ってみよー!
石碑(いしぶみ)の里公園
多胡碑があるのは高崎市吉井町。
鏑川沿いの吉井運動公園のすぐ近くです。
訪れた時は台風19号の爪痕がまだ残されており、運動公園も水没した痕跡があちらこちらに残されていました。
砂埃にまみれた運動公園の駐車場に車を停めて道路を渡り、多胡碑へ歩いて向かいました。
駐車場から多胡碑までのアプローチは、下の案内図(写真)をご覧ください。
多胡碑の周辺は、石碑(いしぶみ)の里公園として整備されています。
駐車場から歩いて、最初に遭遇するのは古代蓮の咲く池ですが、季節的に涸れていたのでスルー。
そこを過ぎると…
古墳が!
これは片山1号墳と名付けられており、4世紀末から5世紀初に築造された円墳で、この地域では最も古い古墳だそうです。
説明板には粘土槨古墳と書かれているので、竪穴式です。
粘土槨とは、石に代わって棺を粘土で覆う埋葬形式です。
墳丘上に埋葬された棺は、竹を縦半分に割った形状の割竹形木棺とのこと。
墳丘の直径は33m、この場所へ移築以前の調査では、二段築成で周囲には堀が巡らされていたことが認められており、その全直径は51mだったとのこと。
【参考資料】
- 古墳設置の説明板(上段写真)
- 平成30年高崎市観音塚古墳考古資料館 ミニ企画展「昔を語る多胡の古墳 -多胡郡建郡の背景を考える-」配布資料
そして、隣にも円墳が!
横穴式石室の古墳ですが一部の天井石が失われ、石室に続く羨道(入り口の通路)が剥き出しになっていました。
古墳の名称は南高原1号墳とのことですが、手元に参考資料がなく、古墳に設置の説明板に頼らざるを得ません。
こちらは直径17mということで、隣の古墳よりも小さめの墳丘のようです。
ただ、隣の片山1号墳は移設に当たって一段目に当たる基壇が失われているようなので小さくなっており、どちらも同規模の古墳に見えます。
あ、しまった…
古墳に時間をかけすぎました。
そろそろ本題の場所へ向かわねば…
多胡碑を観るぞ
二つの古墳の目の前には、多胡碑を含む上野三碑についての展示がなされている多胡碑記念館があります。
が、一先ずここは通り過ぎて、メインの多胡碑へ向かいます。
多胡碑が風雨にさらされ劣化しないよう、現在では建物の中で保存されています。
建物の手前には、説明板が設置されています。
こちらは子供向け。
その隣に…
大人向けの詳しい説明板があります。
碑文を要約すると…
『大和朝廷からの命令だよ。周辺の郡から300戸を分離して、羊に管理させるよ。名前は多胡郡だからね。西暦711年4月1日。by 大和朝廷のおエラい面々』
…ですが、簡潔にしすぎたかな?
補足します。
周辺の郡は、
- 片岡郡(かたおかのこおり)
- 緑野郡(みどののこおり)
- 甘良郡(かんらのこおり)
の三つ。
大和朝廷のおエラい面々は、
- 多治比真人三宅麻呂
- 穂積親王
- 石上麻呂
- 藤原不比等
という、錚々たるメンバーです。
彼らから命令を賜わるなんて、碑文の主人公 羊さんじゃなくても、石碑を作りたくなっちゃいますね。
(石碑の建立は羊によるもの、という説が一般的です。)
ここで疑問です。
主人公の羊さんて誰?
どんな人?
これが、謎なんです!
しかも、人物じゃない説もあるとか。
この羊さんに関しては、Wikipediaに詳しく記されているのでリンクします。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/多胡羊太夫
羊さんについては、読めば読むほど、知れば知るほど謎が深まります。
羊さんの従者 八束脛も同様です。
古代史のロマンですなぁ。
さて、多胡碑本体を見学しましょう!
と言いつつ、残念…
ドアには鍵がかかっており、ガラス越しの見学となりました(´;ω;`)
いいさ…
これまで県立歴史博物館で嫌という程見学してきたからね…
レプリカだけどさ^-^;
ちなみに、多胡碑は近くの牛伏山から採取される牛伏砂岩を使用しているそうな。
牛伏砂岩は、前出の南高原1号墳の石室にも用いられているとのことです。
多胡碑記念館
多胡碑について引っ張るだけ引っ張りながら、ガラス越しに遠目に見学というショボいオチになりましたが、気を取り直し、多胡碑記念館へ足を向けました。
入館無料が嬉しい^ ^
(無料は令和2年3月末までだそうな)
常設展は、上野三碑のレプリカや拓本、映像が展示されています。
戦後、GHQによる多胡碑の接収を恐れて地面に埋めるなど、地元の人々による保護活動の記録も展示されています。
また、期間限定の企画展として、近年発掘調査された多胡郡の正倉跡の展示が行われていました。
多胡碑の南の地域で発掘された正倉は、多胡郡の年貢米など穀物を保管した大規模な倉庫群だそうです。
あ、しまった。
見学の際、正倉についての資料を貰うのを忘れていました…
頭の悪い私としては、手元に資料がないと何も説明できない…(;ω;)
雰囲気だけでもイメージしていただけるよう、チラシをリンクしておきます。
https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2019092800014/files/20191006114010.pdf
最後に
多胡碑を見に行って、羊さんがとても気になるようになりました。
さらに、従者の八束脛さんも気になるようになりました。
彼らの伝説の地が群馬県内に点在しているので、機会ができたら行ってみようと思います。
【参考資料】片山1号墳以外
- 高崎市「多胡碑記念館(吉井いしぶみの里園内)」サイトhttp://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121900164/
- 「上野三碑」リーフレット
最近、広報たかさきでやたら上野三碑推しだったのが気にはなっていましたが、歴史も由緒もあるんですね(^^;)
おエライ面々すごいメンバー揃ってるし(笑)
羊さんの謎も気になりますね。
私も行ったことがないのですが、上毛かるたの「む」の絵柄は…外からの絵だったんですね。
変なところに忠実だなぁなんて思いました。
こう見せてもらうと、興味が湧きますね!
そういえば、多胡碑の絵札はお堂の絵柄でしたね。
忘れてました^^;
お偉方に名を連ねている藤原不比等の生母は、群馬町にある保渡田古墳群の被葬者一族とも言われている車持氏出身です。
単純に律令制の中枢人物だから石碑に名が刻まれているのでしょうけれど、勝手に、関連性をあれこれ想像したくなってしまいます。